L'Anovelién

UNO=日昌晶

Author:UNO=日昌晶
日昌晶(ひよしあきら)
小説家にして作家デビュー請負人、ストーリーコミュニケーションコンサルタント
原稿執筆や講演・講義、オタクビジネス・マーケティングのコンサルティングまで幅広く活躍中!
 unokyokai@gmail.com

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ついに女装男子にまで……

ラノベ読者的に女装男子というと『バカとテストと召還獣』の木下秀吉からの認識かもしれませんね。
女装自体は異性装趣味(トランスヴェスタイト)といって、それこそ神話の昔からあります。
有名どころではトロイ戦役に参戦したくない英雄アキレウスが女装して隠れていたなんてエピソードも有名です。
(まあ、並みの男よりも筋骨たくましい英雄が女装してバレないわけがないのですが、そこは神話ですよね)

日本での女装はキャンディ・ミルキィさんあたりが最も初期の有名人じゃないでしょうか。
女装向け雑誌『ひまわり』の編集長・発行人も務めていましたが、
マスコミ的にはメルヘンなひらひらの服にランドセルを背負った笑福亭鶴瓶師匠によく似たおじさんですかね。
あまりに印象的な特徴の方なので、私も町にでるとおそらくキャンディさんと思われる方と年に1度は遭遇してます。
私も頻繁に繁華街へ出かけるわけでもないので、きっとキャンディさんの行動力が凄いんでしょうね。
都内在住の方なら、キャンディさんとは気づかずに遭遇しているかもしれませんね。

閑話休題。さて問題は最近の性的嗜好なんですが、あえて「女装男子」というジャンルが成立してるようです。
当初はアダルトビデオのキワモノ企画のひとつで、同性愛者か女性向けと思っていましたらそうではないようです。
ネット上では敢えて女性よりも女装男子を好むノンケの男性が着実に多くなっているような気がするのです。
気のせいかもしれませんが、そういう風潮はAVや同人誌の数からいって増加傾向なんですよね。
おそらく「スカトロ」とか「獣姦」といったニッチなジャンルよりも大きいと考えています。

それに同性愛者の場合、通常は「女の子になりたい」あるいは「男として男が好き」のどちらかなので
わざわざ女装した男を好むというのはほとんどいないはずで、いるとすれば特殊趣味の異性愛者なんですよね。
キリスト教的倫理観が伝わる明治初期までは、普通に「男色」とか「衆道」と呼ばれる性文化は一般的で
女にしか興味ないほうが男としておかしいみたいな風潮さえありましたからね。
今の風潮は江戸時代以前への回帰なのかもしれません。

そうすると、昔みたいに「色子」と呼ばれる女装男娼の性風俗産業が大々的に復活するかもしれませんよね。
今でもニューハーフ系風俗はそれなりにあるようなのですが、豊胸やホルモン投与が前提のようで
普通の男子が女装しただけというのは、おそらくまだ日本にはないはずです。
今の時代はなんでもありありだし、おそらく同性同士の疑似性交についての法律も完備されてなさそうなので
規制も緩そうな感じがするんですが、どうなんでしょうか?
また新宿二丁目などで体を売ってる男娼の相場というのは娼婦に較べると格段に安いので普通の風俗店より安そうです。

もしも秋葉原あたりで女装男子風俗を開店したら話題になるし、意外と繁盛するかもしれませんよ。
元来、平賀源内も通い詰めた江戸時代の色子街は神田にあったので秋葉原は場所柄もほぼ同じですし。
以前ブログで女の子にモテないならキモオタ同士で付き合っちゃえば問題ないじゃないかという記事も書きましたが
近い将来、秋葉原は電気の街からオタクの街、そして男色の街へと進化していったりするとおもしろそうです!
きっとそんな世界のラノベは冴えない少年とツンデレ美少年(あるいは無性)のラブコメなんかになるでしょうね。
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ガンプラでいじめを克服する小説があります!

ライトノベルではないのですが、なかなかおもしろい趣向の小説を読んだので紹介しようと思います。

それというのも、いじめられっ子の中学生が「ガンプラ」を作ることに目醒めることにより
やりがいとか自信とかを持つようになり、ついにいじめを克服、さらに淡い初恋までしてしまうという
それはもうモデラーには夢のような作品だったりするんですね。

その作品は今野敏著『慎治』です。
1999年に単行本で刊行され、文庫本になったのは2007年ですので、すでに単行本は絶版のようです。
単行本の表紙はガンダムの写真がデカデカと載っていて、まるでガンダム本のような体裁だったんですけどね。
文庫版は黄色を基調としたかなりおとなしい感じの表紙となっています。



肝心の内容ですが、一言で言えば映画『ベスト・キッド』(The Karate Kid)のガンプラ版ですね。
ベスト・キッドではうさんくさい老人に空手を習って、いじめっ子たちを試合でやっつけていく話ですが
この『慎治』では、あまり熱心とはいえない教師にプラモデル作りのイロハを教えてもらうんですね。
ガンプラでどうやって、いじめっ子をやっつけるのかというと、まあ、それは読んでからのお楽しみです。

余談ですが、気になったのが師匠となる担任教師のガンダムに関する信条なんですよねw
ガンダム好きならわかると思いますが、先生はガチガチのファースト原理主義者です。
もうね、宇宙世紀ものではない『Gガンダム』とか絶対に認めませんし
当時(作品上の現在)流行っている『エヴァ』なんか見向きもしません。
ひたすら初代ガンダムのMSをフルスクラッチで作製している筋金入りのガノタなんですね。
作中の序盤、数ページにわたってガンダムの歴史を語りまくる先生は熱いですよ!
きっと先生は作者の分身であり、この熱い思いは作者そのものなんじゃないでしょうか。

そんな師匠なので、弟子に最初に作らせるのは「1/100スケール・ガンダム」なんですね。
もちろんMGシリーズの最新モデルではなく、1980年発売の旧キットのガンダム……
これをエアブラシはもちろんのこと、パテで盛ったり、切ったりしながら作製させていくんですね。
(それにしても今となっては30年以上も前の旧キットが当時の価格のまま入手できるガンプラは凄いですよね)

ラノベじゃないけどラノベ以上にオタク趣味を駆使した作品なのです。
ガンダム好き、プラモデル好きな方はぜひご一読あれ!

自分の人生を堪能してますか?

小説家になりたい。その夢ためにあなたは何をしていますか?
一般的には新人賞に向けて作品を執筆していると応えるでしょう。
また何もしていない人もたくさんいるでしょうね。

ただ一番重要だと思うのは、今の自分の人生をいかに送っているかだと思うんですよね。
そりゃあ、毎日が充実していることに越したことはありません。
現に私も毎日を楽しく過ごしています。
反対に苦悩の日々、哀しみの日々を過ごしているというのもまた逆境として作家性を高めてくれるでしょう。
かなり苦しいので、あまりおすすめはできませんが、苦しんでいなければ書けない作品というのもあります。

ダメなのは何も考えずに暮らしていることです。
たとえ恵まれた生活を送っていたとしても、ただなんとなく毎日をやり過ごしている、
あるいは勉強や仕事、そして遊びも含めてルーチンワーク化してしまって変化も刺激もなくなっている場合です。

自分の生活の中にさえ「気づき」がないのでは、小説はなかなか書けるものではありません。
人によって異なる感情の揺れや起伏というのを自覚し、それを文章に表現できなければ
ちゃんとした人物描写をしようなんて虫がよすぎる話だと思いませんか?
これができてない人は魅力的なキャラを描けないんですよね。
ただ事件や現象としてのストーリーが淡々と記述されるだけのもの、
いわば学校の歴史教科書みたいなおもしろみのない作品になってしまっていることでしょう。

現代小説は登場人物の目をとおして、その人物の思いや気持ちを交えながら事柄を描くものです。
そのためにも自分がどんな事物を前に、どのように感情が動くのかを知悉しておきましょう。

なぜワンピースはあんなに人気があるのか?

言わずと知れた日本で最も売れている漫画『ONE PIECE』!
単行本は初版ウン百万部という、小説では村上春樹作品以外には絶対にありえない売れ行きですよね。
テレビアニメに映画化、さらには膨大なキャラグッズと、それはもう国民的作品といっていいでしょう。

でも作家志望のあなたや漫画通を自認するような人には、それほど評価されていなかったりもしませんか?
絵は個性的ではあるけど超絶的な技巧があるわけでもなく、ストーリーもベタな展開が多いのにとか思っていませんか?
たしかにおもしろいとは思うけど、なんであんなに売れているのかイマイチわからないという人も多いかと思います。
特に漫画やアニメにとどまらず小説や映画といった物語作品を膨大に消費している人にはなおさらでしょう。
そういう人にはワンピースはこれといって他作品と比較して人気の差ほどのちがいがあるようには思えないはずです。
実際、そうなんだと思います。
世の中にはたくさんおもしろい作品はあふれていますし、その中の一部はワンピースを超えているはずです。
とはいえ、ワンピースを超えているからといって売れるとは限りません。
その人気の差はどこから来るのかを考えてみたいと思います。

端的に言うと「より大きなニーズを掴んでる」からなんでしょうね。
たとえば『アンパンマン』という作品があります。
説明するまでもなく未就学児童には圧倒的人気を誇る人気作品であります。
しかし中年のおっさん世代に人気があるかといえば、ほとんどないですよね。
それは『アンパンマン』という作品がターゲットとしているのが幼児だからであり、
そこから大きくはずれるおっさんは対象外だからというのは別に言われなくてもわかっていると思います。

ワンピースもこれと同じなんですね。
基本的に少年ジャンプ連載ですから読者ターゲットは小学生(中高学年)の男子だったりします。
この層がどのような特徴があるかというと、だいたい漫画を読み始める年代なんですよね。
つまりワンピースははじめてストーリー漫画を読む層をターゲットにしています。
コロコロコミックなど低学年もカバーする漫画雑誌もありますが、これは単発ギャグが主体であって
冒険とか感動とかを与える作品に関しては、ほぼ初めての体験がワンピースなわけですよ。

「はじめて触れるストーリー漫画」としてのニーズに確実に応えているのがワンピースなんですね!
少し拡大解釈すれば、小学生でなくても、経験的にあまり物語作品に触れたことのない人たち
つまりはあまり漫画や小説など読書をしないし、映画やドラマもそれほどみないという人たち
いわゆるライト層みたいな人たちに対しても非常にウケがよくなるわけです。
だいたい大人でワンピースにハマってる人というのは幼少期のノスタルジーとして好きでないなら
ほとんどの人はワンピース以外に他の漫画を読んでいたりするのかというと、そうではなさそうです。
「ワンピース最高!」といっても、どの作品と較べてよりおもしろいかというよりも
知ってる作品がワンピース以外にあまりないという場合が多そうなんですよね。

はっきり言って読書経験の乏しい人におもしろくても難解なストーリーや表現を駆使しても理解してもらえません。
離乳食ではないですが消化にいいように噛みくだいた、わかりやすいストーリーや表現、俗にいう「ベタ」が求められるんです。
でも逆に読書経験が豊富だと、あまりに「ベタ」すぎると食傷気味になってしまうので
より新規性や斬新性を求めてちがう作風を求めてゆくのは当然のなりゆきでしょう。

そして、そういうマニアック路線へと進む人って、いつの時代も少数派でしかないんですね。
ほとんどの人は初級レベルからほとんど進歩しないまま止まってしまうものです。
だからこそ、この読書経験の浅い層にこそもっともたくさんの人がいるわけで
ここを独占的にがっちり鷲づかみしているのがワンピースなのです。
これは少年ジャンプの性質上のものとはいえ、それを理解しつくして本当にいいところを押さえてますよね。

かつて『世界の中心で愛を叫ぶ』という小説が大ヒットしたときも、やっぱりその人気を支えたのは
読書家ではなく、はじめて小説を読んだのが「セカチュー」でしたみたいな人たちでしたよね。
当時から読書家(評論家を含む)には、ベタすぎて従来恋愛作品の要素を詰めこんだだけと評価されませんでしたが
あまり小説を読んだことがなかった人には、どれもこれも斬新で感動的なんですよね。
そもそも「ベタ」というのは「定番」であり「はずさない鉄板ネタ」ですからね。
何度も見せられたら飽きもしますが、はじめてなら効果絶大ですよ。

そう考えてゆくと、ライトノベルというのも実はワンピースとあまり差のない読書経験の浅い人向けです。
ただしラノベばかり読みこんでいる読書家の層も厚いので、実質的な読者は両極端なんですよね……
この場合、どちらの読者層も両取りするというのは非常に難しいわけです。
どちらに軸足を置くのか、そして選んだほうの読書層に好まれるのはどんな要素なのか。
そういうことも考えてストーリーやキャラクターを考えていくことも必要でしょう。

世界初のゴシック小説『オトラント城奇譚』の短編映画

このブログでも何回か登場しているゴシック小説の元祖『オトラント城奇譚』の短編映画があるので紹介してみましょう。
この映画『オトラントの城』(Otrantsky zamek,1979)はチェコの作品なんですが、原作をそのまま映像化するのではなく
なんとモキュメンタリー形式で作られているのが特長となっています。
モキュメンタリーとは何かというと、平たくいえば疑似ドキュメンタリーですね。
有名なところだと『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』とか『パラノーマル・アクティビティ』なんかですね。

元々、原作の『オトラント城奇譚』という小説からして、風流なイギリス貴族にして国会議員が書いたものなんですが
大昔のイタリア人が事実を基にして書いた物語を英語に翻訳したという体裁をとっているんですよね。
このあたりは『指輪物語』ととても似た形式ですね。

そういう作品だからこそ映画もモキュメンタリーがよく似合うというわけです。
映画では物語に登場するオトラントのモデルとなったのはイタリアではなくチェコだったという
大胆な仮説の元に進行してゆくストーリーとなっています。
肝心の物語パートは人形劇で有名なチェコらしく切絵人形劇風アニメによって表現されていて味がありますよ。





物語のあらすじはというと、城主マンフレッドの息子が結婚式直前に空から降ってきた巨大な兜の下敷きになって死亡。
予言を恐れるマンフレッドは跡継ぎが途絶えることに怯え、息子の花嫁を自分の妻にしようとするのだった……
古城を舞台に相次ぐ怪異……兜につづき巨大な脚鎧、手甲、剣などが出現しては物語は進展してゆく。
ゴシック小説の基礎を作った作品を約18分ほどで体験してみてください。

「やれば出来る!」はウソなのか? 本当なのか?

よく精神論で語る人に「やれば出来る!」というのがあります。
できないのは努力がたりないからであって、努力の量が充分なら絶対に成功するんだということなんですが
はたして本当にそうなのでしょうか? あるいは理想論にすぎないのでしょうか?

私の持論としては「やれば出来る!」というのはウソだけれど、かといってまちがってもないと思ってます。
なぜならこの世には「努力できる人」と「努力できない人」がいるんですよね。
「努力できる人」であれば、「やれば出来る!」というのはたいてい成就させられます。
しかし「努力できない人」は「やれないので出来ない……」となってしまうんですね。

じゃあ、努力できる人というのは、どういう人かというと、常に努力を怠らない人です。
つまり努力することがニュートラルの状態になってるんですね。
たいてい「やるときはやる!」とかいってる人は「努力できない人」です。
……まあ、私のような意志の弱い俗物ですね。
こればかりは努力できるよう努力することができないのですから仕方ありません。

そして努力できる人は2通りいます。
なんでもそつなく努力できる人と、好きなこと以外は努力できない人です。
なんでも努力できる人は自ずと結果を残します。
たいていそういう人は高学歴です。
なぜなら受験勉強なんてものは、仕事なんかよりよほど運の要素が少ないものですからね。
やればやるだけ結果を残すことができます。
ひたすら勉強していれば普通の頭があれば、誰でも東大に合格できる仕組みですからね。
ただし効率の個人差はあって、A君が10分で理解して習得できることもB君は3時間かかるかもしれないわけです。
それならB君はA君より18倍多く勉強すれば追いつけるわけです。時間がたりなければ浪人すればいいわけですし。

対して好きなこと以外は努力できない人はちょっと変人扱いをうけるでしょうね。
それと実は「努力できない人」なのに「好きなことなら努力できる」と勘違いしてる人も多いので注意しましょう。
好きなこと以外は努力しないということは一極集中タイプですから、ひとつのことを寝食を忘れて夢中になれる人です。
それから努力と惰性はちがいますよ。
例えば三日三晩徹夜でネットゲームをしたことがあるから自分は努力家だなんていうのはないですよね。
それはただの消極的な行為、惰性にすぎず、我慢や辛抱のたぐいではあっても本当の努力ではありません。
それがもしゲームでもプログラムを徹夜で書いていたなんてことであれば、それは努力となります。

「やれば出来る!」なんて言うのは簡単だし、本当に実践できている成功者も中にはいます。
でもほとんどの人は「やれば出来る!」ことはわかっていても、「やれば」の前提ができないのです。
なので努力できないなりに頑張ってみるか、あるいは生来の才能やセンスに賭けるしかありません。

もしあなたが残念なことに努力できない普通の人であったとして
「どんなに努力しようとしても出来ないかもしれないけど、それでもやってやる!」の気概はありますか?

ノスタルジーで作品を彩ってみないか?

ライトノベルにはそれほど多くないのですが、一般小説にはノスタルジックな作品が多く見受けられますよね。
もっとも有名なのは映画化もされた漫画『三丁目の夕日』なんかですよね。
その時代を生きた人であれば当時を懐かしむだろうし、その時代を知らない人には好奇の対象となりえます。
なかなか趣深いので、これを選択肢のひとつにしない手はありません。

ラノベだと新しいところで10年前くらい、あるは昭和時代なんかがおもしろそうです。
さほど昔のことじゃないのに、まだインターネットもなかった時代があり、
携帯電話も金持ちの社長くらいしか持っていなかった時代がありました。
駅なんかも有人改札で、駅員がひとりずつカチカチと切符にハサミを入れていた頃だってありました。
そういえば今でも人気のあるガンダムとかマクロスが始まったのってこんな時代だったんですよね。
ロボットアニメにとっての近未来の設定が1999年だったり2001年だったりしたものです。

さらにもう一段時間を遡ると大正時代とか明治時代、さらにはもっと古い時代を扱うことになりますが
これだと読者世代にはノスタルジーという感じはしないので、歴史物となってしまいそうです。
何年からノスタルジーで、どこから歴史かという境界は曖昧なので定義はできないんですけどね。

なにより大切なのは、あなたがノスタルジーだと感じるものが何かということです。
それは当時の世相や風俗かもしれないし、風景かもしれません。
好きなオモチャやテレビ番組だっていうこともあるでしょう。
それこそ人それぞれだと思いますが、それを作品の背景に折りこんだり、テーマにしたりするのと
一層の情感が漂って、奥行きのある作品として仕上がるかもしれませんよ。

あなたの作品は中高生だったあなたならどう感じますか?

とどのつまりライトノベル、ジュブナイル、児童文学というのは若年層向けて書くわけです。
これを読んでいる作家志望者のほとんどの人がすでに大人であるとするならば
あなたが中高生だったときに、今のあなたの作品を読んだとしたらどう感じるのかというのが
もっとも大事なことだったりするわけです。

たしかに世代間ギャップなどありますが、作品の魅力というのは大筋で普遍なのです。
でなければ古典文学なんてものが今も親しく読み継がれることはなくなってしまうでしょう。
あなたの作品を中高生のあなたが読んでみて、おもしろいと思えるのか、あるいは感動できるのか?

あなたが学生だった頃には、どういう物語を、そしてどういうキャラを求めていたのでしょうか?
いまいちど改めて考えてみると、思わぬところに忘れかけていたヒントが隠されているかもしれませんよ?

中国人が命を賭けるメンツとは何なのか?

この前、中国についてのエントリーを書いたので今回はそれに派生して、ちょっとした考察です。

今も昔も中国人はメンツを何よりも重んじます。
メンツは「面子」と書きまして、中国由来の外国語で日本でも定着していますよね。
比較的新しい(たぶん戦前)外来語なので、読み方も中国読みだし、だいたい意味も同じです。
同義語としては「対面」とか「面目」とかがあります。加えて麻雀由来の「メンバー」の意味もありましたね。
しかしながら意味はだいたい同じでも、その重さは日本人とはまったく異なるのがこのメンツなのです。


前提条件として、中国は儒教文化であり中華思想のエリアです。
この儒教の理念にとって大事なものとして「秩序」の概念があります。
簡単に言うと人には順位や序列が決まっていて、常に序列を守れば争いも起きず平穏に正しく暮らせるというものです。
中華皇帝を頂点として下は乞食まで1位からビリまで万人の順番が決まっている世界、それが儒教世界です。
そして身分が上の者は下の者を慈しみ、下の者は上の者を敬う――なんとすばらしい世界でしょう!
ただし、それは理想郷の話であって、現実世界では上の者は下の者に横柄、横暴となってしまいますし
下の者は上の者を妬んだり、へつらったり、あるいは諦めの境地で無抵抗になってしまっています。

ですから中国人は意識的にあるいは無意識的に、この秩序の順位を常に気にします。
そして順位を乱すようなことを嫌いますし、あわよくば自分の順位を高めたいと狙っています。
なにより自分の順位を下げるようなことは何があっても許せないのです。

この点、日本人は友人や同僚、隣人に対して上だとか下だとか常に意識することは少ないんですよね。
たしかに上下はあるでしょうが、あえてそれを見ないようにするのが日本人です。
たとえるなら日本人の世界観ではなだらかな斜面の丘に立っているようなものです。
見上げれば天皇を頂点として、丘の上には政治家やら富豪やら芸能人などがいるのはわかっていますが
周りを見渡せば、斜面はなだらかなので平地のように見えるので、近くにいる人との上下は気になりません。
ところが中国人(朝鮮人も含めて)はなだらかな斜面ではなく階段のような段差なのです。
ひとりひとりが異なる段差に立っているため、同じような境遇の隣人であっても何センチ上なのか下なのか
ささいな差であっても常に意識しないではいられません。
そしてわずかでも上の立場であることが確保できれば、下の人に対して横柄に振る舞います。
儒教としては上の者は上の者らしく下の者に振る舞うことが正しいマナーであって
日本のように「実るほどこうべを垂れる稲穂かな」なんていう謙遜はかえって悪しき行為なんですね。

メンツとはこのような儒教文化圏における自分の順位を守る(できれば上げる)ことを意味します。
だからこそ自分が人脈が広いこと、あるいは金持ちであることを堂々と自慢してきますし
自分の周囲での評価を下げるような他人前で注意されたり怒られたりすることを異常なまでに嫌います。
そして、ここで重要なのが、このメンツを守るためならば何でもするし、してもよいと考えていることです。
メンツさえ保てればウソをつこうが卑怯な手段をとろうが、ときに犯罪行為だって許されると思っているのです。
もちろんメンツを一度でもつぶした相手とは絶交や敵対となり、関係修復はほぼ不可能になります。

そこが「命惜しむな、名こそ惜しめ」という日本人の名誉感とメンツが相容れない概念なんですね。
同じ周囲からの評価を気にするとはいえ対極にあるといっていいでしょう。
どうして、このような差異が出るかというと、もうひとつの理由があるからです。

日本人は素直にミスや失敗を認めて謝れば、それは正しいことをしたとその人の評価があがる場合が多いですね。
見苦しく言いわけをするくらいならウソなどつかず正々堂々と振る舞うことが正しいと考えているからです。
これは「謝罪」というものがミスや失敗といった行為そのものに対しておこなわれているからです。
ちょっと意味が異なりますが「罪を憎んで人を憎まず」みたいな言葉もあるくらいですから
日本人というのはミスや失敗といったことを謝り反省すれば、それ以降はそのことについては不問とされ、
いわゆる「水に流す」という文化があり、人間関係を円滑にしています。

しかしながら中国人や朝鮮人など中華圏では、そうではないんですね。
「謝罪」は「失敗した行為」ではなく「失敗した人」に向けられるのです。
つまり謝罪というのは「私は悪い人間であり、正しいあなたよりも格下の存在です」という意思表示なんですね。
ですから謝罪することは儒教的な上下の序列が決定づけることにほかならないのです。

ここで日本人の感覚とはずれてきて、互いに反目しあうことになります。
よく中国、朝鮮、韓国では「日本は先の戦争について反省していない」と常套句のように責めますよね。
これは外交カードであり、日本からカネや技術を引きだす魔法の言葉でもあるわけですが
それだけでなく日本と彼らとの謝罪とか反省の意味が元々ちがっているからこそ起こるものなのです。
日本人は日中戦争や日韓併合という行為について謝罪し、謝ったからには全てを水に流して
一から新しく友好的な関係を築いていこうというふうに思っているはずです。
しかし彼らはちがいますよね。謝罪というのは「日本は中国(韓国)より格下です」と認めたことですから
「下の者なら下の者らしく上の者である我々にもっと媚びへつらえ、そして我々の言うことに従え」という意味です。
それなのに日本はさも謝ったんだからいいだろう的に何事もなかったように振る舞うのが気にくわないのです。
そうすると「日本は反省してない、謝罪がたりない」ということになってしまい、日本人を辟易させるのです。
中国や韓国では謝罪したから終わりではなく、謝罪してからの態度が問題となるわけです。
そのため日本人的に考えれば「中国人や韓国人は何度謝罪しても永久に許さない」というふうに見えるわけですし、
実際につぎの戦争でも起きて序列が変化しない限りは、彼らはずっと謝罪を求めてくるでしょう。

こういうわけですから、いつまでたっても日本と中国の軋轢はなくなりはしないでしょう。
同じ単語を使っていても、そもそもその概念が異なるのですからいつまでも平行線を辿ることになります。

中国人のメンツとは過度の上下関係に基づく秩序意識であり、日本人とは相容れない概念であることを理解しつつ
彼らと交流する方法を模索してゆく必要があるのです。

何が問題なのか見極める力をつけるには?

これは小説だけに限りませんが、何が自分の作品にとって欠けているのか、あるいは間違っているのか
ということを自覚することは本当に難しいことなんですよね。

なにせ正解というものがない分野ですから算数みたいに検算や逆算で正誤を判断するわけにもいきません。
最後までミスに気づかないことも多いわけです。

しかし、そのまま放置するわけにもいきません。
すべて完璧に問題点を発見することは不可能でしょうが、できる限り少なくし
さらに重大な問題点については漏らさないようにしたいものですよね。

小説創作においては、まず基本を押さえることがもっとも重要です。
そして基本とそれ以外をしっかりと見極める力を持つことです。
基本に沿っている部分については、そこに重大な間違いはないはずです。
そして基本からはずしている部分についてについて重点的に点検すると効率的です。

まずなぜ基本からはずれているかですね。
敢えてオリジナリティをだすために基本からずらしているのか、それとも不可抗力ではずしてしまったのか?
さらに故意にはずしたとして、その狙いはどこにあり、それは狙いどおりの効果を発揮しているのか?
そこのところをよくよく見極めてみるといいでしょう。

なんだかんだいって伝統芸能や武道と同じく「型」が重要なんですね。
まだ型をしっかりと学びとっていない人は、まずはそこからはじめてみるのがよいでしょう。
HOMENEXT →
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