L'Anovelién

UNO=日昌晶

Author:UNO=日昌晶
日昌晶(ひよしあきら)
小説家にして作家デビュー請負人、ストーリーコミュニケーションコンサルタント
原稿執筆や講演・講義、オタクビジネス・マーケティングのコンサルティングまで幅広く活躍中!
 unokyokai@gmail.com

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バカの認識を超えて

俗に言うバカな人との会話というのは本当に途方に暮れてしまうものです。
とにかく話が噛みあわないのですね。これではコミュニケーションがとれないなあと思うときが多々あります。
どうして話が噛みあわないのかというと、ちょっと説明は難しいのです。
特に難しい知識を前提とした話でなくても、どうもよく相手に伝わっていないようなんですよね。

たとえば「ゾウ」という動物がいます。
バカな人でも、たいていはゾウという動物を知っています。
しかし、それはゾウという名前でくくられる動物だけなんですね。
はたして「ゾウ」という動物は「鯨偶蹄目」に属し、奇蹄目のサイより同じ鯨偶蹄目のクジラに近い動物だとか
ゾウはゾウでもアジアゾウとアフリカゾウに大別するくらいは理解していても
アジアゾウにはインドゾウやスマトラゾウなど数種類いて、アフリカゾウにも近年になってDNA解析から
北アフリカに住むのはより小型の別種マルミミゾウとみなされてきているなんてことは知らないでしょうし
もしクジラのことや、マルミミゾウのことについて説明しても興味を持たないどころか
へたをすると「そんなことはどうでもいいではないか!」と怒りだしてしまうことがあります。

彼らの言い分では「ゾウはゾウであって、それ以外のなにものでもない。私がゾウと認識するものがゾウだ」
というような思考によるものではないかと思うわけです。
彼らの認識を超えるものについては、あえて知ろうとか理解しようということをするよりも
拒絶することで彼らの考える「ゾウ」のイメージを崩さないことを何よりも大事にするのでしょう。
彼らにとってゾウとクジラが近縁関係だとか、ゾウは十種類近くいるなんてことは、彼らのイメージにないのです。

こういうわけですから、わからないこと、知らないことについては先程のように怒って拒絶する場合もあれば
「私はバカだからわからないので」と卑下して拒絶するという人もいます。
しかし本人はちっとも自分がバカであるとは思っておらず、「私はバカだから」と言っとけば
うまいことやりすごすことのできることを知っている私は賢いんだとさえ思っている節があります。
「数学なんてわからなくたって生活に困らない」とか「外国に行かないから英語は必要ない」なんていうのも
同じタイプの言い訳と言っていいでしょうね。

よって、そういう手合と会話をするときには、実は彼らのイメージを壊さない範囲での話をしなくてはなりません。
しかし他人の知識の度合いを忖度して話すなんてことは、はっきり言って非常に困難なことですから
彼らの「知識量を超える」=「イメージを壊す」ような内容を含むと、とたんに拒絶反応されてしまうのです。
しかも安全策をとって過小評価して話すと、今度はこちらをもの知らずなやつだと見下した態度をとったり、
あるいは「俺をバカだと思ってバカにしやがって」なんて激昂されることになってしまいかねません。

ところが作家というものは読者として、そんなバカも相手にしなくてはなりません。
もちろん作者よりもずっと優秀な人間の相手もしなくてはならないことも多々あります。
バカと天才の両方を満足させるような作品を書くというのは至難の業でしょう。
とすれば、どこかで妥協して基準を設けなければいけません。
実は普段、作家は自分を基準にして作品を書いていますから、あまり気にすることはないかもしれませんが
ときどき自分の作風と自分の知識量とに大きな差がある場合があります。
まあ、ほとんどの場合、作家は自分の能力以上の作品を書けませんから、自ずと下方向ということになります。
たんにバカということではなく、児童文学やジュブナイルなどは子供相手ですから当然そうなりますし
本来であれば中高生相手のライトノベルも同様なわけです。

そういうわけですから意識して文章や表現、使用する漢字、説明などに工夫が必要になってきます。
ひらがなだらけの哲学書とか漢文調の絵本とか極端な例をだせば、いかに滑稽かはわかると思いますが
微妙なバランスを考えると実は非常に難しく、しかも上にも書いたとおりシビアな反応が返ってきます。

あなたは自分の作品をどういう人が読むことを全体と書いているのか意識していますか?
そしてあなたの想定する読者に最適化するような工夫として、どんなことを実践してますか?

今と昔の感覚の差について

個人的なライフワークかのように「夜這い」に関する民俗学資料をいろいろと読んでいるのですが
そこで夜這いとは直接関係ないことながら、紙幅を割いて説明してあったことが気になりました。

それは「夜」の感覚についてなんですね。
夜といえば「暗い」というのは当たり前なのですが、実は現代の夜と昔の夜とは大きく違っていました。
何が違うかといえば「暗さ」「闇の濃さ」がちがうわけですが、どうも現代人にはなかなか理解しきれないもののようです。
私自身でさえも子供の頃に感じていた夜の暗さよりも今現在の夜の暗さよりも物理的に明るくなった気がします。
街灯などの照明は数も明るさも増えたし、深夜まで起きている家々から漏れる灯りも増えました。
24時間営業のコンビニや終夜輝き続ける電光看板などもあります。
なにより都心に住む身としては、深夜といえども人の往来が絶えることはあまりなくなってしまいました。
だからたとえ部屋のすべて電灯を消そうと、窓から入る外の明かりでぼんやりと明るくなってしまいました。

かつて夜とはまさに魔物の住む世界を具現化したような時間帯でした。
日が落ちれば月明かりしかなく、雲や木々に空が遮られれば、ほぼ真の闇となります。
そして闇とは明るさだけではなく、昼の人間の世界とはちがう人気はない寂寥とした異界となるのです。
古人の語るところによると、昔ながらの闇が変化してきたのは大正の後期以後とのことです。
この頃になると田舎のほうでも電灯が普及しだし、夜の世界はだんだんと薄まっていったようですね。
数あり衰退の理由がありますが、この電灯の普及と同時に夜這いもしにくくなった原因のひとつだそうです。
とはいえ資料では東北地方の一部では1980年代現在の時点で夜這いの風習は確認できていたそうなので、
今もどこかで夜這いの風習が残る地域が日本のどこかにある可能性も高いですね。

閑話休題。ですので今の感覚でいう夜、特に宵、夕方なんていう感覚は現代人の考えるものとはまったくちがいます。
夜はどこまでも暗く、それこそ一寸先さえ見えない。しかもとにかく怖いくらいに静かであったのです。
また日が暮れれば、あっという間に闇に包まれてしまう感覚はなかなかわかりにくいでしょうね。
まだ大丈夫だろうと油断すると、もう照明なしには歩けなくなるほどに暗くなってしまうのです。
よく中二病的なワードとして「逢魔ヶ刻」なんて使われるわけですが、それを実感できるほど
人の境界と魔の境界をいやというほど認識させられてしまう時間帯なんですね。
田舎に住んでいる人なら山とかにはいれば、どういうものか実感できるでしょうし
東京でも代々木公園の真ん中あたりにいると、完璧ではないですが夜の世界を疑似体験できます。
それでも田舎であっても、よほど奥ではないと空の下のほうが町の明かりでぼんやり黄色く染まっていたりと
本当の闇というものにはなかなか出会えないでしょうし、元から淋しい山中の昼と夜というよりも
昼は人で賑わっていた町が急に異世界にでもなったように変化してゆくというのとでは趣きも異なります。

もしもあなたが歴史小説や時代小説、もしくは異世界ライトノベルで中世ヨーロッパ風のことを書くとき
今の感覚で夜をイメージしてしまうと、ちょっとおかしなことになってしまうかもしれません。
たとえば電灯のない世界で「夜に人影を見た」なんてことはまずありません。
それこそ室内であれば視覚ではなく気配とか聴覚、嗅覚で感づくことはあっても、視覚では数十センチ先にいても見えません。
ある程度離れた場所にいる人影をしっかりと認識するには、それこそ屋根や壁のうえで満月に照らされでもしない限り
目撃されることはないでしょう。ランプや行灯など半径1メートルも照らさないですから。

あなたの経験してきた普通の世界は、けっしてどこであっても正しい世界でもないということを常に感じてください。
あなたがあたりまえだと思っているものこそ、実は大きな誤解が潜んでいるものです。

勉強するよりモテる努力をしようか

もしもこれを読んでいるあなたがまだ学生であるなら、いちおう人生の先輩からの忠告としてひとつ。
「学生の本分は勉強である」というのはタテマエです。
学生時代になにをすればいいのかというと、まずモテる努力を再優先してください。
「自分はブサイクだから」とか「オシャレに興味ないし」とかいって努力を怠り、落伍者にならないようにしてください。

正直、なにもしなくてもモテモテな人はいます。それは勉強しなくても勉強ができる人と同じく才能です。
凡人は天才にはかないません。なにしろ天才は努力を努力と思わないところが天才なのですから。
ですが唯一の救いは天才なんていうのは人口の数パーセントしかいません。
であれば、あなたに平均的な素養があればトップになれないかもしれませんが努力しだいで上位1割にはくいこめます。
これは勉強でもモテる技術でも変わりはありません。
もし平均より劣っていたとしても普通レベルには押し上げられるでしょう。

では、なぜ勉強よりモテる努力を優先すべきなのか? 理由は2つあります。
1つめは勉強ができないことよりモテないことのほうが、より大きなコンプレックスになってしまうこと。
2つめはモテとは人間的な魅力であり、魅力のある人のほうが学歴が高いことより成功しやすいこと。
顔がいいとかスタイルがいいとか先天的にモテる要素ではなく、後天的にモテる要素を持つ人は
異性だけでなく同性にも好かれます。そして人の上に立つときにはカリスマになるわけです。

モテない人たちの間では、モテようと努力することを往生際が悪いとかカッコ悪いとする風潮もありますが
それは抜け駆けを許さない牽制であって、モテようと努力することは悪いことでも恥ずかしいことでもありません。
だからといってまったく勉強をしないでモテる努力をしろというわけではないですよ。
できれば両立すべきであり、どちらかに重心をおくならばモテる努力に費やせということです。

あなたがイケメンでも美人でもない、どちらかというと逆サイドにいると自覚しているのなら
モテる努力を放棄することは、生涯にわたって大きなコンプレックスを抱えることを意味します。
ラノベ作家なのに、こんなことを言うのもなんですが二次元に逃避したところで癒せるものではありません。
そして後悔は若いうちは気にしないようにしていても歳を経るほどに大きくなってゆくでしょう。
ちなみに日本二大無差別大量殺人犯の根源的な犯行動機は「モテない」からだということをお忘れなく。
秋葉原通り魔事件しかり、『八つ墓村』の元ネタになった明治の津山三十人殺しもしかりです。
それほどのルサンチマンを抱えることになることを覚悟できるなら、モテる努力をしなくてもいいですが……
あなたにその覚悟はありますか?

承認欲求の時代

現代日本は、まさに承認欲求の時代だなと思うのです。

ネット環境が整備され、人と人とのつながりをサポートしてくれるSNSのようなツールもできまして
この傾向が若者たちのあいだで如実に顕現してきたんじゃないでしょうかね。
とはいえSNSなどネットを介在しての人間関係はリアルでの友人知人を含めて浅く広くになりやすいので、
なかなか承認欲求を満たせないというジレンマも抱えてしまっているようです。

「だれかに認めてもらいたい」、突きつめていえば「だれかに愛されたい」というのは人間の本能的な欲求であり
コンプレックスが強い人や認められた経験がない人ほど強く渇望する傾向にあるわけですが
じゅうぶん満たされている人というのは少ないようで、なにかしら渇望による焦燥感や不安感を持っているようです。

特にパートナー(夫や妻、彼氏彼女)がいない人というのは、どうやっても満たされない気持ちがあります。
娯楽や趣味、仕事で忘れることができても代替することはできず、親友や友達といった存在ともまたちがうんですよね。
自分を一番に思ってくれる存在、身を任せてくれるだけの信頼を寄せてくれる存在というのは
たとえ無二の親友でも、その点に関しての飢えを満たしてくれるものではありません。

ライトノベルのキャラで定番の「ツンデレ」というのも、主人公(=読者)の承認欲求を満たしてくれる代表格です。
一途に自分だけを愛してくれるキャラは、承認欲求が強い青少年ほど強く憧れるでしょう。
同様に素の自分をそのまま受け容れてくれるような寛容なキャラもまた同様だったりします。
萌える云々というのは、こういった読者の欲求を満たしてくれそうなキャラ設定が基本となります。

とはいえ、このあたりは基本路線、王道なのでたいていのヒロイン(ヒーロー)キャラには備わっているため
オプション的に「メガネ」だの「巨乳」だのといった属性によって読者のニッチな好みに対応してますけれども。
しかし、いくらキャラを好きになっても彼女/彼たちが読者の承認欲求を実際に満たしてくれることがないんですよね。
それこそどんなに食べても飲んでも飢餓感がつづく「餓鬼地獄」そのものなわけです。
ただし地獄の本質はどうあれ表面的には甘くたのしいものなのが唯一救いとなっています。

そして、このような甘美な餓鬼地獄の呪縛から我れに返ったときなど、本当の絶望が見えたときに人は狂気にかられやすいものです。
あなたは絶望の深淵を覗いたことがあるでしょうか?

かつての長旅のたのしみ

あすから冬コミがはじまります。
都内近郊だけでなく、全国から参加しようという人たちが移動するんでしょうね。
そうでなくても年末年始は帰省やら旅行やらと大移動の季節だったりもします。

さて、今回は昔の長旅のたのしみについて考えてみたいと思います。
昔というのはまだ鉄道が発達していない頃、もちろん高速道路なんかが整備されていない時代になります。
昔の旅というと、ちょっと知ってる人なら東海道五十三次とかお伊勢参りなんかが思い浮かぶんじゃないでしょうか?
そんな徒歩での移動が基本だった時代、旅にはどんなたのしみがあったのでしょうか?
時代劇ドラマ『水戸黄門』の全国漫遊なんかを観ると、その土地々々の風光明媚な景勝などを愛でたり
八兵衛あたりが土地の名物の食べ物を食べたがるのが基本だったりします。
『東海道中膝栗毛』なんかも基本的にそういうふうなかたちで書いてありますよね。

とはいえ、そんなものが果たして心からたのしかったのでしょうか?
そりゃあ、普段見たこともない景色を堪能するのはありですが、所詮は景色ですよ。
現代人からすれば、たいして教養のない人たちにとっては一見すればそれで満足。それ以上でも以下でもなかったはずです。
また土地の名物料理なんていっても旅の路銀がギリギリな人が大半なわけでぜいたくはできないので
正直、今のように名物料理に舌鼓なんてことはあまりないわけです。
名物の団子だとか安価なものもありますが、たいていどこも同じようなものだし格別美味しいわけじゃない。
そういうわけで、今と昔とでは旅の目的とかたのしみ方がまったくちがっていたわけです。

では昔の人はいったい何を楽しんでいたのでしょうか?
単刀直入にいえばセックスでした。当時の貧乏人の娯楽はそれしかありません。
人がふたりいれば男同士でもなんとかなります。戦前まで男色はそれほど珍しいことではなかったですしね。
どうやって楽しんだかというと、宿場の宿屋にはたいてい飯盛女とか酌婦というのがいまして
これらは食事の世話とか酒のお酌をすることもしましたが、それは名目だけのことで実質的には娼婦でした。
ちゃんとした宿屋の代金にはたいてい女の料金も込みになっていましたし、名物料理よりはるかに安かったんですね。
今でいうユースホステルみたいな簡易宿になれば大部屋に雑魚寝ということになりますので
居合わせた男女で寝たふりをしながらも適当にペアを作っては、その夜をたのしく乱交して過ごしたそうです。
そこで気が合うと、その後も一緒に同道したりしていたそうですね。
特に中年女性は積極的に迫ってきたそうで、年寄りより誘われやすい若者のほうが旅の途中でへばってしまうなんてことも。
夏目漱石の『三四郎』でも上京する途上、旅の途中で一緒になった女性から夜の誘いを受けるのですが、
野暮で純粋がゆえに断ってしまうエピソードがあるわけですが、明治の頃も状況は大差ないですから
こうした庶民の常識をふまえてみると、三四郎の野暮ったさや世間知らずさがより際立って感じられます。

旅をする男も女もゆきずりの遊びをもとめていましたし、なによりその土地の者も積極だったことが少なくなかったようです。
よそ者のタネをもらうと幸せになるとか厄祓いできるとかいうことで、旅の男と寝る土地の女も多かったんですね。
たぶん狭い農村だと近親婚になりやすいのを避けるために自然と発生した風習だったと現代では考えられています。
現代の貞操観念からするとギョッとするような風習ですが、一応は理にかなっているんですよね。
行商など定期的に行き交いするような人になると、なじみの女を転々と回りながらということも多かったみたいです。
そういうわけですから旅の途中で娼婦でも素人女でも相手に困ることはあまりなかったようです。
女ならなおさら誘えばたいてい食いついてくるのでより簡単に相手を見つけられました。
非日常的な旅でなくても日常の行動半径内でもいつもより遅くなって夜道が暗くて恐くなりますと
通りかかったマトモそうな男を誘っていわゆる青姦をしてから一緒に家まで連れ帰ってもらうとかままあったようです。

旅の途中の楽しみというのは、そういうこともあって今では新幹線や飛行機で数時間で行けるところを
何日もかけてそういうふうに途中の道程もたのしみながら旅していたのが昔の人の旅でした。
どちらかというと現代人は目的地をたのしみますが、昔の人は旅路をたのしんでいたんですね。
あんまりたのしいんで、路銀の許す限りわざわざ回り道をして旅する人も多かったみたいです。

もちろん旅の途中だけでなく目的地での楽しみもまたセックスが最大の娯楽でした。
江戸時代の観光旅行といえば、幕府の許可の関係上、お伊勢参りと相場が決まっていましたが
お伊勢参りをしますと、そのすぐあとに精進落としとして遊郭にゆくのが当時の定番コースでした。
だからこそ伊勢には古市という江戸の吉原、京都の島原と並び称せられる大遊郭が発展していました。
どんな雰囲気だったかというと、映画『千と千尋』のあの異世界をイメージしてもらえるとだいたい同じです。
あの映画の世界観のモデルとなったひとつが古市の遊郭(跡)でしたから。

だいたいこのような環境は戦前まではそこそこ残っていて、鉄道の発達にともない宿場が衰退してゆき
ついに昭和30年代にはわずかに残る程度まで衰退したようです。今もあるのかどうか私は確認はできてません。
こういう時代もあったということを知っていると、出会い系で即セックスとかオフパコとかかわいいもんだと思うわけです。
かつて日本というのは巨大なヤリサーの集合体だったわけですからw

サークラ同好会コミケ初参加+新年会やります

京都大学の非公認サークルであるサークルクラッシュ同好会は明日31日のコミケ3日目に【西ま26a】にて出店しています。
会誌第2号を頒布していますので、ぜひお立ち寄りくださいませ。
ちなみに会誌第1号はネット上で無料公開されていますのでサークラ好きなら必読ですよ!

そしてサークラ同好会の活動としては今年2013年に関東支部が諸事情によりクラッシュしてしまったことで
東日本の拠点がなくなってしまうのを憂慮して、私が設立したのが東京支部なわけですが
これまで活動らしき活動をしてこなかったのは今年の反省点であります。

そこで来る2014年は積極的に活動すべく、再決起&新年会を開催することにしました。
サークラ同好会入会希望者から入会する気はまだないけど興味があるという人もぜひ参加をお願いします!
年齢性別一切不問です。学生だけでなく社会人の方もぜひふるってご参加ください。
詳細については下記のとおりになります。

【名称】サークルクラッシュ同好会東京支部 決起&新年会2014
【目的】サークラに興味がある、あるいは「私がサークラだ」という人との親睦と交流
【日時】2014年1月11日(土)17:00~21:00
【会場】英国風パブHUB 池袋東口店ANNEX(池袋東口には2店舗あるので要注意!)
【場所】豊島区南池袋1-25-9 MTYビルB1F
【会費】各自飲食する分だけ実費(1000~3000円程度)
【資格】良識ある18歳以上であれば誰でも(20歳未満は飲酒喫煙不可)
【幹事】東京支部代表 日昌晶
【連絡】参加希望者はメール(当ブログ左画像下)かツイッター(@HiyoshiAkira)までお願いします。

特に場所を予約して確保するわけではないので、当日参加もドタキャンもOKです。
お酒が飲めない人も自分が飲むソフトドリンクと料理だけ注文してもらえるのでリーズナブル!
もちろんたくさん飲みたい人にもカクテルなどが半額(190円~)になるハッピアワー(17:00~19:00)もあります!

それではみなさんのご参加を心待ちにしています。
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